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『テレビ探偵団』

という番組を覚えておられる方はいるだろうか?
もう15年以上前に、懐かしのテレビ番組を紹介していた番組である。(今ではこの番組が懐かしいが。)

ホークスに関して、何か資料が無いかと探していたら、この番組のビデオが見つかった。意味も無くこんな番組のビデオを撮っておくわけないよなぁ~と思って見てみたら、何とゲストが『水島新司先生』だったのである。

水島先生は、南海の思い出として、杉浦忠の日本シリーズ4連投4連勝、野村克也の12本目の満塁HR(当時プロ野球タイ記録)、香川信行の初打席初HR、門田博光の月間最多の16HR(当時日本新記録)などをあげておられました。

そんなホークスファンの水島先生は、ホークスの大阪球場最終戦で、ファン代表として、挨拶されたそうです。

そして、こういう事を言っておられました。

「ダイエーホークスは間違いなく南海ホークスより強くなりますよ!
やっぱりね、プロはお金ですよ。南海はね、安すぎますよ給料が!私は勝ち試合の代打HRにあぶさん賞として、ポケットマネーで賞を出していた時期があったんですけどね。そうすると選手の目の色やベンチの裏の素振りから違ってきますよ!」


私もプロの選手の力量を測る一番の要素はお金だと思う。
ただ過去の実績に関係なくその年の活躍に応じて、変動させるべきで、一年を通してあまり働けなかったのに、過去の実績による高給取りはいかがなものか?と思っている。

それとジャイアンツのように、他球団のスター選手ばかりを集めるのはいかがなものかと思う。実際に戦力が偏りすぎて、機能していない面もあると思えるし、それに他球団のスターであったが為にどうしてもジャイアンツの選手という思い入れが沸かないのだ。足りない戦力を補っての補強として、1~2人来てもらうのは許せるとして、あれだけ集められると興醒めしてしまう。そして、今年も中日から野口、どうやら西武から豊田も取りそうだ。

しかし、私はどうもうまく機能する気がしない。
野口も豊田もこの先伸びていく選手ではない。豊田はまだ行けそうだが、今年から落ち始めても不思議ではない気がしている。ジャイアンツはそういう雰囲気がある。そして、失敗すれば、自前で若手を使わずまた他球団から取りに行く。その繰り返しが、ここ数年間続いている。

『プロはお金』

それ自体は私自身同感だが、最も大切なのはお金を撒き散らすことではなく、その使い道なのだ!
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私が初めて福岡ドームに行ったのはいつだっただろう?
とりあえず古いチケットを探してみました。
一番古いのは↓でした。

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う~ん、ドーム元年はそういえば行かなかったな。あまりの弱さに、行く気がしなかったのだろうか?

しかし、私はきっとこの人をナマで見たかったに違いない。
この年の監督はあの根本隆夫監督で、その根本監督が3対3のトレードで西武ライオンズから引っ張ってきた

『秋山幸二』

である。
当時、投打の要であった村田と佐々木を放出して、秋山一人を取りに行った感があった。ホークスファンは「大丈夫かよ?」と思ったに違いない。私もそう思った一人でした。

しかし、その後 秋山選手がホークスにもたらしたものは今更説明の必要も無いと思う。あのトレードがホークスにとって、失敗だったという人はいないだろう。

もっとも私は8月21日の観戦で印象的だったのは、阿波野投手と佐野投手が並んで歩いてた事なんですけどね。(笑) それぐらいホークスの試合にはインパクトがありませんでした。それに私は近鉄の観戦が結構多い。やはり忘れられない球団です。

しかし、秋山選手が来たからと言って、急にチームが強くなる訳ではありません。ホークスは相変わらず弱いままでした。1986年5月9日には日生球場で近鉄に敗れたホークスのバスに生卵がぶつけられるという事件が起こりました。この頃監督は王監督に変わっていたのですが、球場にも「タノムカラヤメテクレ王」の横断幕があげられたり、「やる気がないならやめちまえっ!」の大合唱が起こる始末。連日ニュースで取り上げられるほどの異常事態でした。

城島選手が入団した当初もベンチで暴れたり、弱いチームを象徴するようなまとまりの無さでした。

95年には同じく西武から『工藤公康』もFAで入団していたのだが、秋山・工藤がその力を発揮するのはもう少し待たなければなりませんでした。

ホークスは某球団のように確かにお金をつぎ込んで来た。しかし、無駄遣いはしていない。必要な選手を大きな犠牲を払って取ったのだ。しかも秋山は九州出身。地元に根付く為にはどうしても地元出身のスターは必要不可欠だと思う。現在の4番の松中も九州出身。
そういう意味では、『英雄・秋山』の獲得は現在のホークスの原点となったのではないだろうか?

そして次回はいよいよホークス優勝の時を書きたい。
実はこの試合は今でもビデオで持っているのです。
私は九州に来てから、ナマでプロ野球を見る機会が無かった。
しかし、1988年大阪の名門 南海ホークスが大手スーパーのダイエーに球団を譲渡。
ここに

『福岡ダイエー・ホークス』

が誕生する。(初代監督は杉浦忠監督)
そして翌1989年1月19日JALのチャーター機で

『鷹が福岡に舞い降りた!!』

ライオンズが福岡から去って10年、福岡にプロ野球チームが帰って来た。
開幕シリーズは日本ハムに負け越してしまう。

しかし、本拠地『平和台球場』の開幕戦は、元この球場の主であるライオンズだった。
福岡のファンの気持ちは複雑だったらしく、90年代前半私が見に行った西武戦は結構ライオンズのファンも多かった。ダイエーがまだ弱く、西武が強いせいもあったかも知れない。

ダイエー山内孝徳 西武工藤公康の投げ合いになりダイエーが2対1で勝利する。この時感激して泣いた山内孝ちゃんは、今も福岡のラジオ番組でがんばってます。

しかし、この頃のダイエーは弱かった。三宅一生デザインのユニホームが情けなく見えた。

そして私が平和台で初めて見た試合が1992年のダイエーVS近鉄であった。

日付けははっきり覚えていない。なぜ1992年だけ覚えているかと言うと、当時のダイエーの若手エース 村田勝喜が開幕から5試合連続完投勝利していた試合の次の試合。つまり6連続が懸かった試合だったからである。
平和台にはそのポスターが沢山貼ってあった。
そしてなんと近鉄の先発投手はあの『野茂英雄!!』
結果から言うと、この試合で村田は破れ連勝は5でストップしてしまう。
あまりにも昔の話で細かいところまでは覚えていない。

ただ、平和台球場がプロ野球の球場にしては思ったより狭かった事、大型ビジョンが不似合いだった事、佐々木誠選手がファインプレーをした事を鮮明に覚えている。

この頃のホークスはまだまだ弱かった。
でも平和台球場は好きな球場だった。93年に本拠地が福岡ドームに移り、その役目を終えるが大阪球場や西宮球場、藤井寺、日生などのように寂しい終わり方ではなかった様に思う。かつての栄光(西鉄時代)、挫折(球団が去る)。そして再び栄光(ダイエー時代)を取り戻してその役目を終えた。人間で言えば波乱万丈の人生でその成功者ではないだろうか?

今私はパ・リーグでは日本ハムと楽天にがんばって欲しいと思っている。特に日ハムなどはダイエーがいい例になるのではないだろうか?

先日行われた日本シリーズでもロッテの本拠地マリンスタジアムでも阪神ファンは半分はいた。しかし、福岡ではどのチーム相手でもそんな事は起こらない。かつてはパ・リーグの西武戦でさえライオンズファンが沢山いた。しかし、今の福岡にはホークスでないとだめなのだ。

今の日ハムはもし日本シリーズに出ても、相手が巨人なら半分は巨人ファンが占めるのではないだろうか?
いつの日かどのチームが来ても北海道の試合はファイターズファンが占めるようになって欲しい。そしてそういう球団が増える事を願っている。全国区でなくてもいい、その場所で愛される球団であれば。
今のホークスを見ているとつくづくそう思う。
1度球団を失う事を経験したこの街は2度と球団を失う事はしないだろう。

ホークスの事はじっくり書きたいと思っていました。
次回は初の福岡ドーム観戦記を書きたいと思います。
私はプロ野球が大好きである。
いい選手、いい試合だとチームを問わず応援したくなる。
しかし、どこのチームのファンかと問われたら、

『福岡ソフトバンク・ホークス』

と答えます。
今現在、私は九州に在住している。しかし、ホークスは昔から好きなのです。幼い頃大阪に住んでいた私は大阪球場で行われたホークス戦が、人生初めての野球観戦だと思うのです。もう試合の内容などの記憶はありません。しかし、あの難波の一等地に建てられたあの球場の雰囲気と、外野スタンドはぐ~んとせり上がっていて上の方で転んだら、下まで転げ落ちそうなほど急だった記憶があります。

1989年に南海がダイエーに球団を譲渡した時、私はすごく衝撃を受けました。そして、ホームチームを失った大阪球場もその役目を終えようとしていました。

大人になってその思い出の大阪球場を訪ねた時はもう野球場ではなく、住宅展示場になっていました。それでも中に入り、外野スタンドに登ってみるとなんだかものすごく球場が小さく感じられました。そこからホームベース方向を眺めていると、なんだか淋しい気持ちになりました。

その大阪球場も1998年に解体が始まり、一時スコアボードだけが残っていたそうですが、今はそれも解体されてしまったようです。

この頃の南海ホークスは弱小チームでした。そして、ダイエーになってからもその苦難の道は続きます。

そして、大人になって初めて自分の給料で観戦に行った試合が、平和台球場で行われた。『ダイエーVS近鉄』でした。

この事は次回の記事で触れたいと思います。
『千葉ロッテマリーンズ第1回アジア・シリーズ優勝お

めでとうございます』


今回 私はアジアシリーズの記事を書きませんでした。
実は私、日本の野球事情以外には疎いのです。
戦力分析、予想をしたかったのですが、ロッテ以外の戦力が把握できなかったので、強気には書けませんでした。orz (当然メジャーもよく分かりません)

しかし、やはり日本人としてロッテは応援してましたし、この結果はうれしいです。
この企画の目的はアジアの野球が世界に挑戦すると言う事らしいですから、今後は他の国も優勝したりして、お互いレベルアップしていく事が大切だと思います。(日本ばかり優勝するようではこのシリーズは無くなると思う。)

でもやっぱり、私は日本の野球のレベルは世界的に高いと思っているので、第1回大会だけはどうしても日本代表に取って欲しいと思っていました。
結果は大満足です。

千葉ロッテの選手の皆さん、

『おめでとうございました』

そして、

『一年間お疲れ様でした』
4,5年前まで私は大阪に住んでいた。
幼少期 母方の実家が大阪で、父が大阪で働いていたので、大阪に住んでいた。大阪球場に連れて行ってもらった事を僅かながら、覚えている。
小学生の頃から九州に移り住み、球場での観戦が出来なくなってしまった。しかし、働き始めてから5年位っ経った頃に大阪で働く事になった。

私はその頃には野球に取り付かれ、ナマで野球を見れると喜んでいた。
ひとつきの日曜日を野球観戦に費やした事もある。
私は妙な癖で、チケットは捨てたりするくせに1度家まで持って帰ると取っておこうという気になる。あの頃のチケットは無かったかな?と探してみるとありました!

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なんと大阪ドームと甲子園をはしごしてました!
もう試合内容は覚えていませんが、近鉄は香田投手がリリーフに出た事を覚えている。
しかしチケット代だけで、9,000円!私はビールを飲んで、考えながら、ゆっくり見るのが好きなので、もっと使ったはず!
しかも1999年の7月のチケットは、なぜか沢山残っている。

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当時の記憶は特に無いのだが、一ヶ月にこれだけ野球観戦にお金を使っていたら、当然経済的には余裕が無かっただろうと思う。

今はまた九州に帰ってきており、場所柄 球場に行く機会があまり無い為少し残念である。しかし、当時は楽しかった!野球狂レベルも当時に比べたら、だいぶ落ちてると思われる。(苦笑)
この企画の幻の第1回である。

10.19と言う日付けを聞くとオールドファンなら、誰でもすぐに思い出すであろうあの試合。
私を一気にプロ野球へと引き付けた試合である。
私が野球に目覚めた頃、順意表には『太平洋クラブ・ライオンズ』の名前があった事は覚えている。
しかし試合内容は、あまり記憶にない。その後も断片的な記憶はあるが、はっきりと思い出せる試合のこれが一番最初ではないだろうか?



1988年、8月頃には1位 西武と2位 近鉄のゲーム差は8ゲームあった。
しかし近鉄はその後あれよあれよという間に差を詰め川崎球場でのロッテとのダブルヘッダーに2連勝すれば、すでに日程を終了している西武を抜き8年ぶりの優勝を飾るところまで来ていた。
対戦相手のロッテはここまで近鉄に8連敗しており、最下位も決定していた事から、近鉄の優勝確率は高いと思われた。

私はこの頃九州に住んでおり、まだ少年だった。当然リアルタイムでTV観戦する事など不可能だった。ラジオも当然無し。今よりパ・リーグが冷遇されていた時代である。私は前日までの成績は知っていたが、結果は夜のニュースを待つしかなかった。

しかし、川崎球場は満員だったようである。ほとんど近鉄ファンだったようだ。

まず第1試合から激戦となった。先発は近鉄・小野、ロッテ・小川だった。故 鈴木貴久さんのHRや村上嵩幸らの活躍、そして最後は阿波野をストッパーに送り、第1試合は4対3で辛くも近鉄が勝利した。
ダブルヘッダーの第1試合は規定により、延長が無い!もし引き分けていたら、勝率で西武に届かなかった。近鉄は最後のチャンスをものにした。


そして、運命の第2試合が始まる。先発は近鉄・高柳、ロッテ・園川だった。第1試合以上の激戦となったこの試合は、7回で3対1と近鉄リード。勝利の女神は近鉄に微笑んだと思われた。しかし、同点に追いつかれ8回にまた近鉄が1点を勝ち越す。ここで近鉄はまたも阿波野を送り込んだ。エースを送り込む万全の態勢。しかし悲劇が起こった。高沢の同点ホームラン!まさに悪夢だった。

そして9回裏!古川のアウトを巡り、有藤監督が猛講義!!試合は9分間中断される。当時の規定で4時間を越えると延長は新しいイニングに入らない。近鉄ファンは試合の再開を願った。この事には賛否両論あると思うが、有藤監督はこの事で男を下げたと思われる。

延長10回!時間的に近鉄の最後の攻撃であった。しかし点を奪う事は出来なかった。近鉄ナインは勝利も何の希望も無い最後の守りに付かなくてはならなかった。

私はこの模様を当日の夜のニュースで知った。確か『プロ野球ニュース』だったと思う。まだ子供だった私は夜更かしして、注意されたが目をそらす事は出来なかった。

『阿波野投手が泣いている!!』

他にも多くの選手が泣いていた。ただ、私は阿波野投手の涙が妙に記憶に残っている。

近鉄バファローズは敗れなかった・・・。しかし、優勝には届かなかった。その頃西武球場では試合の無かった西武の選手たちによる胴上げが行われていた。今回ちょっと見つからなかったのだが、私はその資料を持っていたのだ。今でこそ試合が無くてもファンが詰め掛けるが、なんとも淋しい胴上げであった。パ・リーグの人気の低さが伺える写真だった。

そして、実はこの試合。本来は放送予定が無かったのだが、あまりの熱戦にテレビ朝日が英断を下し、ドラマを中断して午後9時からCM無しで放送したらしい。しかもかなりの高視聴率を取ったと言われている。
この事でやくみつるさんが4コマ漫画でNHKを批判していた。その時間NHKは牛の生態を放送していたが、牛はその時大変だったの?と
まあこれは冗談でしょうが・・・。



この年近鉄は優勝を逃した。だが次の年近鉄は雪辱を果たし、パ・リーグを制覇する。しかし、日本シリーズではあの加藤 哲朗で有名になった3連勝4連敗でまたも日本一を逃してしまった。12球団で近鉄だけが日本一が無いのだ。
私はそれ以来、いつか近鉄が日本一になる日を夢見ていた。
しかし、それは永遠に叶わない夢となってしまった。

だから、私はどうしてもオリックスを応援する気になれない・・・。
それは私の感情の問題だとは分かっていてもだ・・・。
もちろん、吉井、水口、北川など好きな選手はいる。しかし、オリックスと言う球団を応援出来ないのだ。

私が見てきた夢を奪ったという気持ちが強すぎる。
逆恨みかもしれない。仕方が無いことなのかもしれない。

しかし、この気持ちだけは自分自身ではどうする事も出来ないのだ。


追記ですけど、タイトルの「近鉄バファローズは敗れず」と言うのはこの年のニュースステーションか何かの特番のタイトルでした。
ちょっと引用させて頂きました。
今回から新しい企画を始めてみた。
自分の野球の思い出を、資料や本で得た知識ではなくリアルタイムで体験した事、その時のニュースなどで感じた事を書いていきたい。

もっと早く書きたかったのだが、タイトルをどうしようか迷ってしまった。その結果 パ・リーグの連盟歌である

『白いボールのファンタジー』を拝借させてもらった。

実は第1回は、野球ファンなら覚えているであろう、1988・10・19の事を書きたかったのだが、私がいつも読ませていただいている「プロ野球狂の詩」さんが、予告先発について記事にしておられた。それについて私も思う所があったので、第1回は「松坂大輔 大阪初登場」にさせて頂いた。

1999年 この時私は大阪に住んでいた。
そしてこの年、あの怪物ルーキー「松坂大輔」が西武ライオンズに入団していたのである。
そしてこの年の4月7日松坂は東京ドームの日本ハム戦で、初登板・初勝利を達成していた。

この頃はまだ予告先発は無く、誰がいつ投げるのか分からなかった。
しかし私はどうしても、1度ナマで松坂を見たかった。そこで私は日程を調べたのだが、一番早い大阪ドームでの『近鉄×西武』はゴールデンウィーク中だったのだ。
もうチケットは発売されている。のんびりは出来ない。でも3連戦のどこで松坂は投げるんだ?さすがに全部は行けないぞ?私は近鉄ファン(野球狂)の友人と予定日を予想した。

「間違いない!松坂は5月3日に大阪ドームで投げる!!」

私は慌ててぴあでチケットを入手した。2週間以上前だったと思うが、ゴールデンウィーク中だけにいい席はもう結構売れていた。
しかし何とか↓のチケットを入手した。


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そして1999・5・3(月)
私は友人と大阪ドームにいた。

「ただ今より両チームのスターティングラインナップ及び、バッテリーを発表します。西武ライオンズ ピッチャー 松坂大輔・・・」


ドワアァァァァァァ!!!

アナウンスは
「キャッチャー伊東、近鉄バファローズ ピッチャー高村、キャッチャー的山」
と続いていたのだが、もうそんな声は聞こえない。
先発予想は一週間ぐらい前には新聞でも予想されていた。しかし、それ以前に予想をし、ずばり的中した事と、そのおかげで松坂を見れた事で私たちはすでに興奮していた。

松坂が第1球を投げる。ものすごいフラッシュの嵐!大阪ドームが一瞬光ったと思ったほどだ!松坂は投げにくく感じたのか第2球を投げない。
フラッシュはご遠慮下さいとのアナウンスが流れる。

試合は近鉄3番の中村紀洋が初回にレフトスタンドにHRを叩き込み、松坂は入団後初のノックアウトを食らう事になる。(確か5回ぐらいで降板)
しかし、その後西武が逆転し、5対4で西武が勝利した。
余談だが、この時逆転打を打たれた香田勲男投手は私の高校の先輩だったりする。(年は離れてますが・・・)

友人は近鉄ファンと言えどもそこは野球狂!松坂が打たれても高村の不安定さも指摘し、その後の投手リレーを議論しながら観戦した。

予告先発・プレーオフなど、確かにあまり野球を見ない人には親切なシステムかもしれない。しかし、興味の無い先発同士なら客も球場に足を運ばないだろうし、プレーオフにしても1位通過チームのファンはたまったものではない。ソフトバンクファンは今年でかなりシラけてしまったのではないだろうか?
コアな野球ファンだけでなく、普通の人も楽しめるようにするのももちろん大切だが、コアなファンが離れてしまうシステムでは意味が無い!
パ・リーグはセ・リーグに比べて確かに努力をしてきた。
もちろんそれは認めるし、がんばって欲しい。
でももう少し考えて欲しいのも事実。
野球は本来もっと奥が深いものなのだ。それを踏まえたうえで、新規ファンにも楽しんでもらえるシステムを考えるべきではないだろうか・・・。
敵チーム同士となった水原勇気武藤兵吉
水原はドリームボールを完成させていたが、周囲には隠し続ける。水原が投げる時は、正捕手の帯刀を投手の岩田鉄五郎と交代させてまでと言う徹底振りで隠し続けた。

そしてメッツを見返す為に練習を積んだ武藤も一軍入りを果たす。
ついに水原と武藤は公式戦で、初対決を迎えたのだ。
この対決で、水原はドリームボールで武藤を三振に切って取るのだが、誰もその変化を見定めた者はいなかった。ただ一人主審はその変化を見たはずなのだが、さすがにプロの審判は簡単に喋ったりしない。
こういう所にも、水島氏のプロフェッショナルに敬意を払う姿勢が見て取れる。

この後 水原は一切ドリームボールを投げない。その為ありもしない球でプロにしがみ付いていると周囲に不評を買ってしまう。
しかし、武藤だけはドリームボールの存在を信じていた。
その球を打つ為に武藤は本来のフォームを崩し、不調に陥る。
そして、水原との二度目の対決で武藤は三振を喫してしまう。
それも、シュートで。武藤にもドリームボールを投げない!やはりドリームボールは無い!周囲は皆そう思った。存在価値を失った武藤はカープを自由契約にされてしまうのだった。
しかし、武藤は執念でドリームボールを追い続ける。そしてバックネット裏で武藤が見ている前で、ついに水原はドリームボールを投げた。

「あった!ドリームボールはあったんじゃい!」

武藤は執念でカープに戻り、ついに水原と最後の対決を迎えた。

岩田は水原にシュートのサインを出す。しかし、水原はそれを拒否、ドリームボールしか投げないと言う。
それに対して岩田は、

「武藤がなんぼドリームボールを打つ練習をしたか知らんが、それをムダに終わらすんがプロやないかい!」

それに対し水原は

「私はこのマウンドが最後になってもドリームボールを投げます!」
「でも私は打たれません!いえ、打たせません!!」
「ドリームボール以外何も無い私です。これを打たれてはプロにはおれません!」

水原と武藤の両者とも自分の選手生命をかけて勝負に挑んだ。
勝負の世界は必ずどちらかが傷つく。お互いに負けられない理由がある戦いほど、見るものはそれを望むのだ。観客は残酷だ。負けられないと言う事情、その背負うものが大きいほど観客は興奮する。そしてどちらにも負けて欲しくないと言いながらもどちらかが傷つく事を心のどこかで期待している。そう、見るものは引き分けなど期待していないのだ。
しかし、それを売り物にしているのがプロの世界なのだ。負けたらすべてが終わる。唯一球に人生が掛かっているのだ。

水原は武藤にドリームボールを投げ込む。
しかし、武藤はすべて研究し尽くしていた。肉体が壊れてしまうほどのフルスィングで武藤はドリームボールを捕らえる。白球はレフトスタンドに吸い込まれていった。



そして、武藤は現役引退を決意した。ドリームボールの打ち方をカープの選手に尋ねられた武藤はこう言う。

「プロなら自分で考えろ!」

と。
そして打たれたらやめると言った水原は現役をやめなかった。

「投手なら誰だって信念の一球を投げる時はそのくらいの覚悟はするでしょ?」
「いちいち打たれるたびにやめていたら鉄五郎さんはもう灰になってます。」

武藤はプロの姿を貫いて、プロの世界を去って行った。
水原は、その武藤の姿を追い続ける事によって、本当のプロフェッショナルへと成長していった。

野球狂の詩『水原勇気』『武藤兵吉』の物語はこうして幕を閉じた。

しかし、その因縁は終わっていなかった。今は武藤の息子がプロの世界へと飛び込んでその戦いは続いている。

ただ私にとっては、初代野球狂の詩の印象が強すぎる。今の水原勇気より、あのころの水原勇気が私の思い出の中には生きているのだ・・・。

『水原勇気1勝3敗12S』


と言う本がある。
何かと言うと、これが初代野球狂の詩での水原勇気の全成績である。
思ったよりすごい成績ではないと思いませんか?
残っている印象の割にはあまりパッとしない成績である。
しかし、私にとっては成績以上に忘れられない感動を残してくれた作品である。


東京メッツは武蔵野高校3年生の投手、水原勇気をドラフト1位指名する。実はそれが女性だったのだ。
紆余曲折の末、水原はメッツに入団するが、その二軍の寮で「武藤兵吉」と運命の出会いをするのだ。
武藤は初め女性の水原がプロになる事を不快に思うが、その能力を見るやすぐに認め、彼女が一流の投手になれるように育成を始める。

「水原は先発完投できる投手になれる」

と。
武藤は捕手としては一流だったが、バッティングがまったくダメだった。その為一軍には上がれなかったが、投手を見る目はあったのだ。


余談だが、水島氏は女性がプロの投手として通用するかを、ID野球で有名な野村克也氏にアドバイスを求めたらしい。
何をバカな事を一蹴されるかと本人も思ったらしいが、野村氏の答えは意外にも

「特殊な変則フォームと決め球となる変化球があれば、ワンポイントで使う事は可能。」

と言うような答えを頂いたらしいのだ。だから、女性投手というのもただの思いつきと言うわけではないのだ。

その後共に一軍を目指す二人に転機が訪れる。武藤が広島カープにトレードされたのだ。
私はこの時の二人のやり取りが心に残っている。

武藤が夢の中で見た魔球ドリームボール。その球を編み出すために武藤は水原にフォークの握りが出来るように、練習させていた。
武藤が広島に立つその日、水原はフォークの握るが出来るようになった事を駅のホームに伝えに来た。
そしてこの後はどうすればいいのか?と

「教える訳にはいかん!わしはカープの選手だ!」
「そんなことは自分で考えろ!カープが苦しむボールを敵のメッツに教えられるか!甘いわ水原!」


武藤は水原の事を気にかけていた。しかし、プロとして決して水原を甘やかす事はしなかった。甘えがあってはプロの世界では通用しない事を武藤自身がよく知っていたからだ。そして武藤自身も野球を続ける為に新天地 広島カープでメッツを見返す事を誓う。

東京メッツの水原勇気広島カープの武藤兵吉
後日二人は敵として一軍のグラウンドで再び出会うことになる。


とりあえずここまでを前半としたいのですが、武藤の姿を見ていると華やかな一軍のスター選手の影に、ただ野球を続けたい為に努力している人間がいる事に気づかされる。彼らはいつ野球が出来なくなるかわからない怖さと日々戦っているのだ。
それを思うとドラフトで指名されながら拒否する人達は、プロの世界で野球が出来ることの価値をどう捉えているのかと思ってしまうのです。
当然希望の球団はあるだろう。しかしそれをこらえてでもプロの世界に飛び出した少年たちは素晴らしいと思う。
そう、ドラフト当時の清原和博は本当にいい少年だったよ。

次回は水原勇気武藤兵吉の対決について書いてみたい。
メインPC不調の為、なかなか更新が出来ませんでした。

思い切って購入して、今セッティングをしています。
やっともうすぐ記事が書けそうです。
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